『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、またの名を『ゴジラ狂の詩』
ゴジラマニアが偏執的な情熱をもって作り上げた『異形の映画』。
パラノイアゆえの巨大なカタルシスに圧倒されるが、平成VSシリーズの負の遺産を受継ぐ側面も。
※例のごとく、ネタバレへの配慮は一切ございません。
- 常軌を逸した映画
- 長年にわたって熟成された、監督のゴジラ愛が爆発
- Q. 怪獣は巨大生物か、それとも神か?
- Q. キング・オブ・モンスターズは誰か?
- 良くも悪くも、平成VSシリーズの後継者
- モンスターヴァースはこのテンションを受け継げるのか
常軌を逸した映画
レジェンダリー製のゴジラシリーズ2作目にして、モンスターヴァースとしては3作目にあたる本作。
いきなりですが、この映画はまったく常軌を逸しています。
映画の体を保ってはいますが、やっていることはゴジラ漬けの幻覚トリップ映像のようなもの。
監督の妄執に付き合わされる132分です。
ただしその妄執は、並々ならぬ情熱と莫大な予算によって巨大なスケールで迫ってくるので、観客は「なんだこのノリは」と困惑しながらも、喜ぶしかないのです。
モンスター映画としてもゴジラ映画としてもある意味特異な存在の本作を振り返っていきましょう。
長年にわたって熟成された、監督のゴジラ愛が爆発
本作がどれだけ「ゴジラ狂」映画なのかを悟るには、どれでもいい、ドハティ監督のインタビュー記事をひとつ読んでみれば分かります。
この人、尋常ではありません。
もちろん、日本にも彼に負けないくらい濃いゴジラファンは沢山いますが、ゴジラは歴史が古くて懐古的なジャンルであるし、ファン層はコンテキストに沿って語ることを好む知性派な方か、でなければ造形フェチな方が多い印象です。
ドハティ監督の凄さはそういう一般的なファンとは隔絶しており、まるで『子供の頃にゴジラを見てビジュアルショックを受けた、その熱が今も続いているおじさん』です。
その彼が、愛と崇拝の対象であるゴジラを、自分の思い描く通りに描く。世界設定も辻褄も、ゴジラを引き立たせるためにお膳立てされた舞台装置でしかありません。
ですから、いちおう本作は2014年のギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』の直接の続編ということになっているものの、作風は相当に異なります。
ドハティ監督の価値観で、前作だけでなく日本の旧作からも『こうでなくちゃ』と思う部分は継承し、それ以外は自分の趣味で塗りつぶした、かのようです。
たとえば本作の冒頭。ゴジラの咆哮から始まる*1のですが、鳴き声からして前作と大きく違います。日本のゴジラの、あの特徴的な高い声に非常に近い。
これだけで日本のファンは『あ、これなら大丈夫』と安堵させる説得力がありました。
前作にあったフラストレーションの一つが、開幕一発で吹き飛んだかのようです。
少し脇道に逸れますが、そもそも「海外のゴジラファン」は筋金入りが多いのかもしれません。
90年代まではアメリカでのゴジラ視聴環境は相当に難しい状態にあった*2らしく、新作の劇場公開はおろか、VHSでのソフト化もされない時代が長くあったようです。そういう劣悪な視聴環境の中で、それでもゴジラファンであり続けるというのは並大抵ではないでしょう。それに比べれば、もしかしたら日本のゴジラファンは恵まれすぎた環境で温室栽培された「ぬるま湯」ファンなのかも。
さておき、今回ドハティ監督は長年溜まりに溜まった情熱と妄執を解き放ったのです。
その結果、本作が世に問うたのは、要約すると2つのテーマに集約します。
- 怪獣は巨大生物か、それとも神か
- キング・オブ・モンスターズは誰か
さっそく解説いたしましょう。
Q. 怪獣は巨大生物か、それとも神か?
A. 神に決まっている!以上!
そう、人智を超えた存在である怪獣は、もはや神であります。
それもただの神ではなく、いにしえの神です。
本作では、かつて存在した古代文明において、怪獣たちは人間にとっての崇拝対象であったことが示されています。
いまは深い海底に没した、巨大な都市と神殿。
ゴジラは文明が滅びた今も、そこを住処にしています。
もののけ姫のモロのごとく、崇める民の去った後も神殿に住まい続ける古の神です。
たぶん今回描かれた海底都市のイメージソースの一つは、ルルイエでしょう。
ゴジラは永き眠りから目覚め、深海から浮上してきた「旧支配者」。地球の真の支配者というわけです。
また、本作劇中では怪獣のことを『モンスター』ではなく『タイタン』と呼んでいます。これは単に「巨大」という意味だけでなく、かつてこの世を支配したギリシャ神話のティーターン神族に怪獣を重ねているところもあるのでしょう。
本作では、このような『怪獣の神格化』をかなり念押ししています。
思えば前作「GODZILLA」の時点でその兆候は見られました。
『怪獣はただの巨大生物ではなく、人間の力ではどうにもできない自然災厄のような存在』という日本怪獣映画の常識を、世界市場の観客に浸透させるために心を砕いていました(なにせエメゴジという前例がありますから、気を遣うべきポイントです。)
今回はますますそれを押し進め、怪獣というものが「畏怖すべき対象」から、「崇拝すべき対象」にランクアップしたのです。
さて、次のテーマに行きましょう。
Q. キング・オブ・モンスターズは誰か?
A. ゴジラに決まっている!以上!
「誰が怪獣の王か?」
正直、そんなことは誰も気にしていません。
スクリーンの中でも外でも、誰も質問していません。
ただの監督の自問自答、結論ありきのマッチポンプです。
なんですが、何だか分からないうちに観客も付き合わされます。
「怪獣の王」は、神格化とはちがい、ストーリー上で語られた重要テーマでも何でもありません。*3
登場人物のうち、「誰が怪獣の王か」を気にしているのは芹沢博士だけです。
なぜなら、彼には監督が憑依しているから。
彼だけは未曾有の世界的な危機の中にあって、ひとり別世界にいます。
ギドラはじつは宇宙から来た生物かもしれない、という驚きの新事実が判明し、
「怪獣の中でもギドラだけは地球の生態系の外にいる存在ということか」
「このままでは地球上のすべての生物が危ない」
訪れるであろう危機の大きさに、対策を話し合う面々。
そのとき芹沢博士はというと、吐き捨てるように、一言。
『偽りの王か!』
誰ひとり、「ギドラが王かどうか」なんて、ちっとも話題にしていないのに。
そして、周りはこの発言を見事にスルー。
このくだり、あまりにシュールで笑ってしまいました。一体何を見せられているのか。監督の日記でしょうか?
ともかくこの、観客も登場人物も『誰も質問していない問い』に対して、本作は全力で証明をしてくれます。
すべての要素がただ一点の結論のために用意され、伏線が回収され、ラストで高らかに宣言するのです。
『まことの怪獣王は、ゴジラである!』と。
観客としては、『うむ、何だかわからんが、ゴジラはすごいんだな!』と洗脳教育された気分になって、劇場を後にするのです。
良くも悪くも、平成VSシリーズの後継者
さて話は変わって、旧作との関わりについて少し書きます。
多くの方が指摘するように、本作は日本のゴジラシリーズの中でもいわゆる「平成VSシリーズ」に大きな影響を受けていると思います。
誤解のないように前置きすると、もちろんオマージュだけではなく、本作はかなり独自路線の魅力を持っています。
とくに目立つ長所としては、コンセプトアートをそのままスクリーンに持ち込んだかのような「絵心」が傑出しており、その点ではVSシリーズとは比べ物になりません。
また、巨大な怪獣が戦っている足元で人間たちが動き回る場面は、「特撮と本編」がシームレスであることを改めて教えてくれる名シーンでした。
しかし、根本的な「ノリ」とでも言いましょうか。それが非常にVSシリーズ感を漂わせています。
怪獣が単に「強い」だけではなく、人智を超えた特質を持っている点。
人類が超兵器を多数持っている点。
人類側に怪獣との交信、制御を試みる勢力が存在する点。
国際テロリストのような組織が介入してくる点。
そして、最終的に決戦の舞台が誂えられ、全員集合の大怪獣バトルに全力を注ぐ形になる点、などなど。
とくに、「瀕死の怪獣からゴジラへのエネルギー供給、そして大逆転」という展開には、『ゴジラVSメカゴジラ』の既視感が凄かったですねぇ。
このVSシリーズっぽさは今回打ち出されたテイストに合っていると思うのですが、良くも悪くもVSシリーズの功罪もそのまま受継いでいます。
個人的にとても引っかかるのは、『ゴジラが核燃料や放射線をエネルギー源としている』という設定が復活していることです。これはそもそもVSシリーズ から始まったことでした。
核は強力です。
すさまじいエネルギーを秘めているだけでなく、発せられる強い放射線は生物全般に対して致命的な害毒となります。
それが効かないどころかエネルギーにしてしまうゴジラとは、まさに人智を超えた存在、核の恐怖の化身だ!
…というのがこの設定の趣旨だと思うのですが、それはゴジラが人類にとって恐怖の象徴である場合にしか機能しません。VSシリーズでも本作でも、ゴジラは人類にとって守護者のポジションにシフトしていきますから、無意味な設定です。
私は以前からこの設定が、VSシリーズの負の側面を象徴していると考えています。
もともとゴジラというキャラクターは反核のテーマを持っているわけですが、しかし今作は、「ゴジラの体力を回復させるために、ゴジラの目の前で核兵器を使う」というトンデモをやったのです。
たしかにゴジラは自らが核の申し子ではあるかもしれませんが、いくらなんでも核爆発で体力が回復するというのは謎理論すぎます。劇中のイメージとしては、『核兵器はゴジラにとっての精力剤』くらいの存在に矮小化されてしまっているのですよね。
私は広島で育ったので、悪名高き原爆教育・平和教育を受けてきた人間なのですが、東日本大震災および福島原発事故のときの報道を見て、多くの日本人が核というものに対してあまりにも無理解であることにショックを受けたものです。
たとえば「放射性物質」と「放射能」と「放射線」の違いを、どれだけの人が説明できるでしょうか。
無理解ゆえに、核のことを単に「何かわからないけど怖いもの」という、オバケや呪いのたぐいと同レベルの認識に押し込めて、わけも分からず右往左往するのみ。
その原因は、VSシリーズに代表されるような安易な核の描写が、映画などの創作作品の中で蔓延してきたことにあるのではないか、と思うのです。
こうした点で、本作にVSシリーズから進歩していない部分を見てしまったのは、2019年の映画としては残念なポイントです。
まあ、「ゴジラ=反核の属性を持ったキャラクター」という概念の形骸化は今に始まったことではありません。
本作では、核兵器関連の描写は「お約束」に過ぎず、そんなことよりも遺跡の崩壊シーン、ゴジラの劇的な復活、ギドラとの激突をというテンションのあがる画を見せてくれたことに着目すべきでしょう。
芹沢博士の広島についての語りや懐中時計のエピソードは申し訳程度の断りだと受け取りましょう。
モンスターヴァースはこのテンションを受け継げるのか
さて、突き抜けた魅力をもった特異な映画である本作は、まちがいなく人生を豊かにしてくれる作品です。
とはいえ、本作はレジェンダリーの提唱する「モンスターヴァース」の中のいち作品であり、ゴジラはキングコングとの対戦が確定しています。
同じユニヴァースの作品である『GODZILLA』と『キングコング 髑髏島の巨神』は私もけっこう楽しみましたが、本作のテンションはこの2作と比べてもあまりにも高いのです。
これだけやった後、次作で平常運転に戻られても、たぶん白けてしまうだろうと思います。
逆に、このテンションを維持したまま続編が続いていくのであれば、偉大なシリーズになること請け合いでしょう。
私としては俄然、モンスターヴァースの将来が楽しみになりましたよ。