ソウル・エデュケーション

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スタートレック:ピカード シーズン2総括 どうやらこれは「おくりびと」らしい。

ピカードとQの長年にわたる「テスト」の結末。

シーズン2の総括と、私なりの評価をまとめます。

 

 



 

 

 

 

※本記事はネタバレを含みます。まったく自重しませんので、あしからず。

 

 

シーズン1の感想はこちら。

 

 

 

総評:ドラマがあまりにミクロで、「水増し」感がすごい。

ピカードシーズン2、皆さんどうご覧になったでしょうか。

 

最初に言っておきますと、正直なところ、シーズンを通してみた場合の私の評価は低いです。

もちろん良い部分もあったのですが、シーズン1に輪をかけて、度し難い部分が多いと思っています。シーズン2を純粋に楽しんだという方は、ここから先は読まれないことをおすすめします。

 

「もしTNGでこの題材をやるなら、前後編の2エピソード、または映画1本できれいにまとめたのだろうな」というのが正直な感想です。

 

では、シーズン2を振り返っていきましょう。

 

 

 

大きなネタを、これでもかと重層的に展開した序盤

シーズン2の序盤は、怒涛の展開で幕を開けました。

「謎の通信の主」と「Qによる歴史改変」を皮切りに、過去シリーズの名作エピソードで取り上げられてきた、大きなテーマを沢山打ち出してきたのです。

 

どれだけ風呂敷が広げられたか、ちょっと数えてみましょうか。

 

  1. ピカードとQの因縁
  2. 時間改変による連邦の変質(全体主義の人類至上主義国家へ)の謎
  3. ボーグとクイーン
  4. 2024年のロサンゼルス(=ベル暴動)
  5. ピカードの祖先ルネが、どのような未来の分岐を生んだのか
  6. ピカードの幼き日のトラウマと対人関係
  7. ピカードのロマンス
  8. スン博士の祖先と優生人類

 

このように、どれ一つとっても、その題材だけで名作エピソードが作れそうな、特大のネタです。

実際、2024年へタイムトリップを行うまでの怒涛の展開は、かなり面白くなりそうな予感があったのですが、一方で、「こんなに盛り込んでしまって、はたして収集がつくのだろうか?」と不安になりながら観ていましたが…。

 

実際終わってみると、まあ、結果的には「盛りすぎて持て余した」というのが本当の所ではないでしょうか。話の軸になりそうな要素がいくつもありすぎて、視聴者としては、どこに焦点を絞って観ればいいのか、見失いがちだったように思います。

そして、実はそのことは制作サイドの思惑通りなのです。

なぜなら、これらのネタの大半は、視聴者にストーリーの本筋を悟らせないための、いわばミスリードが目的だったからで、結果的にピカードとQの因縁」以外のすべてが蛇足に終わっている感が否めません。

 

 

 

テーマの散乱の中に潜む、思想性の欠如

ではなぜ、そういう事態になってしまったのか。

私の仮説ではこうです。それは制作陣の「思想性の希薄さ」が理由ではないでしょうか。

 

先に挙げたテーマは、ほとんどが消化不良だと思うのですが、とくに私が深刻にとらえているのは、「2024年のロサンゼルス(ベル暴動)」の件です。

 

つまり、『なぜ、2024年なのか』、その理由です。

この理由が希薄、または、こんがらがっていて、曖昧で、よく分からない。

 

まず、言うまでもなく、スタートレックファンにとって2024年というのは、特別な年であります。DS9のエピソード『2024年暴動の夜』の舞台だったからです。

このエピソードでは、2024年のロサンゼルスにおいて、失業者の増大と、彼らを隔離するかのような”保護区域”の存在により、抗議デモが大規模な暴動に発展してしまう過程と、その決着が語られます。DS9を象徴する、社会派なエピソードでした。

 

新作でわざわざ「それ」に言及するからには、相応の必然性と思想性があって然りなのですが、おそらく本作にはそれがない。ないにも関わらず、ちょっとした話題性、または脚本上のミスリードのためにこの年を舞台に選んだのだとしたら、その浅はかさは度し難いと思うのです。

現代のロサンゼルスで屋外ロケをして、失業者達の仮住まいを写して、はいおしまい、というわけにはいきません。

 

DS9の放映当時とは違い、2022年に暮らす私達にとって、2024年はとてもとても近い未来なのです。

パンデミックと、その後の格差拡大、BLMをへて、先進諸国がおかれた状況を鑑みてください。今、アメリカのリベラリズムの良心と言うべきスタートレックが、「2024年」を使って訴えたいことは、本当にこれだけだったのでしょうか?

 

もちろん、我々の歴史とスタートレックの歴史は、すでにパラレルな世界になっています。私たちの歴史では、90年代に優生戦争は起こっていませんから、当然です。我々の未来において、ベル暴動や第三次世界大戦が起こる可能性は低いでしょう。

 

でも、「スタートレックの2024年」がフィクションであることが明白な今だからこそ、あえて舞台に選ぶのには理由があって然るべきではないでしょうか?

フィクションとドキュメンタリーの違いは、「必然性」にあります。現実には、理不尽なことは幾らでも起きますが、フィクションは必然性の積み重ねでしか成り立たない(視聴者の感情を納得させられない)のです。

 

この思想性の低さは、スタートレックの語り手が、もはや今の社会を見ず、「過去のキャラクターが出てくるだけの、凡百のSF」しか作れないのではないかと、不安になってしまうほどです。

(サレク、デュカット、マートク達の頭蓋標本など、悪趣味なキャラクター弄りをファンサービスにしているのも度し難いです。シーズン1のイチェブの件で、何も感じていないんでしょうか?)

 

 

 

 

ピカードとQの関係性、そして「運命の分かれ道」をふまえた考察

さて、本作のメインテーマに話を移しましょう。

 

ピカードは昔から、高潔で意志が強く粘り強い…悪く言えば、傲慢で強情で頑固…な人物でありました。そして、それを指摘する急先鋒こそがQでした。

 

未知の文明との交渉術には長けているのに、女性や子供への接し方が苦手で、万年独身の彼には、つねに孤独の影がつきまとってきました。自身の家庭を持たなかったからこそ、甥の訃報にはとくにショックを受けていた彼の姿を覚えています。

 

ピカードの人格形成には、おそらく幼少期の特殊な家庭環境が影響していたであろうことは今までにも匂わされてきましたが、ピカード自身が成熟した大人であるがゆえに、トロイにさえもなかなか心を開かず、ゆえに掘り下げが難しかったのは確かでした。

 

ですから、老齢のピカードを主役にしたドラマシリーズを作るにあたって、「データとの死別」の次に取り組むべきテーマが「ピカードの心の闇」になるのは、当然だとも言えます。

 

そして、最終的に、このピカードのトラウマこそが実はQの「目的」であったことが分かる最終回は、まさにシーズン2の目玉だったと言えましょう。

 

ここは、ピカードとQの長年にわたる関係性に着目してみると、美しい着地点だったと思います。

今までにピカードは、幾度となくQから試練を与えられ、時にはピカードのほうがQを助けたこともありました。全知全能のようなQに対しても、あくまで対等であろうとするピカードと、その彼をますます気に入るQ。二人の関係は、ライバルでもない。メンターでもない。ましてや、友人でもない。

なんとも言い難いふたりの関係に、名前を与えるのは、かえって無粋というもの。

でも、最後にそこにあったのは、「愛」の一つの形であることに、疑いの余地はありません。

 

ここが物語の芯になるのはいいのです。本当に美しい。ピカードとハグをするジョン・デ・ランシーの万感の思いを込めた表情には心を揺さぶられます。

 

 

これで泣かないトレッキーはいない(n=1)

 

しかしだからこそ、もったいなさも感じてしまうのです。

それは、あまりにも個人的な問題のために、宇宙の歴史が翻弄されている…セカイ系的な社会性の欠如といやらしさを感じてしまうからです。

 

この部分について語るには、TNGの名作エピソード『運命の分かれ道』(原題:Tapestry)を思い起こさずにはいられません。今回もセリフの引用がありましたし、脚本家がシーズン2の話の骨格を決めるとき、このエピソードを下敷きのひとつにしたことは疑いの余地がないと思います。

 

『運命の分かれ道』でピカードは、とある過去の過ちを後悔しており、Qはそんな彼にやり直しのチャンスを与えます。しかし、やり直しの結果は、ピカードの真に望むものではありませんでした。『過去というものは、一見失敗に思えることも含めて、今の自分を形成するための大切なピースであり、人生はタペストリーのようなものだ』と悟ったピカード。Qは試練を終わらせ、指を鳴らして、やり直しの結果すべてを、きれいさっぱり「無かったこと」にしました。

後にはピカードの精神的成長だけが残り、視聴者へのメッセージが爽やかに伝わるのです。

 

このように、『運命の分かれ道』では、テーマをピカードの内面に絞り、Qはそのことさえ達成すれば、後に禍根を残しません。ミクロなテーマは、ミクロに完結させていたのです。*1

 

では、それに対して、「ピカード」シーズン2はどうだったでしょうか。

今回は大きく違います。

Qの目的は同様にミクロなのですが、やっていることが大きすぎるのです。

 

とくに深刻だと思うのが、ボーグ集合体について。

今回は歴史改編の結果、現実にジュラティ=クイーンが誕生して、ボーグ集合体が変質を遂げ、対話可能な存在になるという大事件が起こっています。

 

ここは慎重に考えなければなりません。

そもそもQは「人類をボーグと引き合わせた」張本人でもあります。

惑星連邦は「他文化の共存と相互理解」を掲げる国家であり、連邦のイデオロギーに対する一種の挑戦状として、Qが叩きつけてきたのが、ボーグでした。

 

個という概念が存在せず、対話が成立しない相手。

それでいて、休むことなく他文明を同化し、拡大主義をやめない相手、です。

 

惑星連邦の理念に真っ向から対立する、絶対に相容れない存在だからこそ、ボーグはTNG以降のシリーズを象徴する、最高の悪役であり続けました。

だからこそ、Qがボーグを人類と引き合わせたことには、アメリカ的な価値観に対するアンチテーゼとして、最大の試練を与えたと解釈することができます。

ボーグに対して、どうするか。それはQが惑星連邦に課した、マクロ的な試練だったのです。*2

 

しかし今回、かつてQ本人が始めた「ボーグ」という名の試練は、Q自身の過去改変により、惑星連邦への暫定加入を求める存在になってしまいました。

それも、ピカードが、惑星連邦が、Qの試練を乗り越える答えを出したからではなく、Qが「お気に入り」に与える個人的なプレゼントとして、です。*3

これはいったい、どうしたことか。Qの与えた試練が、人類とボーグ自身によって解決されるのではなく、Qの介入によって解決していいのでしょうか?

まして、それがピカードとQのひどくミクロな関係に根差しているのですから。「そうか、そうか。つまり君は、ピカード以外どうでもいいんだな」という気持ちになります。

 

さらに度し難いのは、ボーグの集合意識の権化であるクイーンの動機を、「孤独」という、ひどく感情的で、人間の上から目線な価値観で測り、結果としてボーグ側のイデオロギーを矮小化してしまっていることです。

ボーグの集合体というのは、『究極の社会性=全体が個であり、個が全体でもある』という存在であって、もっとも孤独とは縁遠い集団だとも言えたはずなのに・・。

 

たしかにQとの別れは美しい。

美しいのですが、申し訳ないが、これを「エモい」と言って有難がれるほど、私は子供ではありません。劇中の30年は、私たちファンにとっての30年でもあり、それは子供が大人になるのに十分な時間だった、ということです。

 

 

 

 

どうやら本シリーズは、「おくりびとピカードの話らしい。

 

そう思えてならないのです。

 

シーズン1では、色々とネタを重ねつつも、最終的には『データとのお別れ会』が唯一にして最大の目的として、着地しました。

 

そして今回、シーズン2では、『Qとのお別れ会』が唯一にして最大の着地点でした。

その他のキャラクターや出来事に、ほとんど意味は感じられません。

 

このことから、『スタートレックピカード』は、TNGという一つの時代が終わったことを宣言し、去り行く彼らに、きれいな花道を用意してあげる…というのが、どうやら本作の目指すところなのではないか。そのように思っています。

 

ここでは、ピカード葬儀のホスト役。

データやQという、TNGだけでは終わりきらなかった存在に対して、愛と尊敬をもって、丁寧に送り出してあげる。そういうドラマに思えてなりません。

 

 

スタートレックについて、楽屋裏のことを言うのは好きではありませんが、どうやら本作で配された新キャラクター達は、シーズン3に登場しないという噂です。

代わりに、TNG時代のキャスト達がカムバックするという噂もあります。

彼らの帰還は嬉しい反面、どうやら本作が「おくりびと」であることに思い当ってしまうと、彼らとの別れも近づいているようで、少し寂しいようでもあります。

 

そして、すべてを送り出した後は、ピカード自身が美しく去るのを、我々が見送ることになる。そんな予感がするのです。

 

 

 


 

 

*1:「やり直し」の実態も、実際にQが現実を改変したのか、それともピカードに夢を見させただけなのかは、曖昧になっています。ピカードの内面というミクロなテーマに絞っているため、それが現実だったかどうかはどうでもいいことなのです。

*2:そもそもボーグは、集合体意識=全体主義の極致を体現する存在です。人類補完計画的な青臭い理想論の価値観の権化であり、だからこそ個人主義国家である惑星連邦とは、根本的に、絶対に、分かり合えない存在でした。

*3:ジュラティ=クイーンの影響が、ボーグ全体にわたるものとは考えづらい(だとしたら、今までの400年間に起きたボーグ関連の事件についてタイムパラドックスが発生する)ことから、ボーグ集合体自体が変質した訳ではないという解釈は可能だし、そう願います。ブルーの影響で一部のドローンが自我に目覚めたように。