ソウル・エデュケーション

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『パンズ・ラビリンス』多幸感あふれる宝物のような映画…と、私には見える

空想好きな少年少女や、かつてそうだった人間に限りなく「刺さる」映画。

奇妙で残酷だが、はかなく美しい。大事にしたい宝物のような作品…と、私には見える。

 

 

 

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はじめに 

 

今更ですが、まずはこれを言わねばなりません。

デル・トロ監督、『シェイプ・オブ・ウォーター』でのヴェネツィア金獅子賞とアカデミー賞の受賞は本当にめでたい!ものすごい快挙でした!

 

それを祝したく、デル・トロ監督の出世作であるパンズ・ラビリンスを見返してしまったので、その勢いのままに書くことにしました。

 

 

パンズ・ラビリンス』は、あらためて独特な作品です。

ただでさえ『スペイン内戦下の悲劇』『地底の王国を舞台とするファンタジーという2つのストーリーが交錯しながら進んでいく構成であるのに加えて、『観る側の解釈』によって大きく見え方が変わってきます。

そして、物語の結末も非常に賛否の分かれるものであり、人によっては所謂『鬱映画』などと評する方もいます。

 

しかし、本当に多面的な映画であるゆえに、本作は単に『鬱映画』という言葉で片付けられるべき作品ではありません。

少なくとも私にとっては、『パンズ・ラビリンス』は多幸感あふれる宝物のような、大事にしたい映画です。

他の映画で同種の感覚をもつ作品はほとんど無いと思います。

 

本記事では、そんな『パンズ・ラビリンス』の多面的な魅力を、気のおもむくままに語ります。

 

 

 

 

美しい映画。

 

たぶん、本作を見た人なら誰もが同意するのではないでしょうか。

パンズ・ラビリンスじつに美しい映画です。

 

しかしながら、本作の美しさは必ずしも『目に心地よい』という意味の美しさではありません。

『絵画のように劇的に、徹底して作り込まれた映像』という意味の美しさです。

 

 

画面が、まるで絵画のようなのです。

その背景には、本作がスペイン映画であり、監督はメキシコ人だということが関係しているかもしれません。

西洋美術史において著名なスペインの画家は何人もいますが、彼らもまた「本流」といえるイタリアなどの画家たちとは一線を画していました。

とくに本作に影響しているのは、ゴヤではないでしょうか。『黒い絵』の連作のような、背後に何があるか分からない深い黒が本作の映像を思わせます。

(ペイルマンが妖精を喰らうシーンがありますが、あれはサトゥルヌスでしょう。)

 

本作の映像は、どのシーンもグラフィックノベルのような劇的な美しさを持っており、『シン・シティ』や『300』が再現に挑んだフランク・ミラーの絵の実写化」に近いものを感じます。

 

また、それを支える美術も出色の出来です。

デル・トロ監督自身のアイディアスケッチが素晴らしいのは有名ですが、そのイメージを忠実に再現したであろう、本作のセット、ライティング、色彩、特殊メイクなどの美術面は本当にすばらしく、非常に高い密度感を感じさせます。

 

この密度感、いわば『質感を大事にしている』ことが本作の大きな特徴だとも言えましょう。

そのためか、CGIよりは実写素材を多用しており、パンやペイルマンのようなクリーチャーもメイク、スーツ、アニマトロニクスなどの手法で撮影されています。

 

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長身かつ、脚が趾行になっているパンを、あくまで俳優の演ずる実写素材として撮影する


本作の制作費は1350万ユーロだそうです。為替によりますが、日本円にすると18~19億円くらいでしょうか。

邦画でいえば大作レベルですが、ハリウッドの巨大プロジェクトに比べれば微々たるものです。

それでもこれだけの質感を感じさせてくれることを思えば、映像面ではとてつもなく抜きん出た成果を上げていると思います。

 

 

 

 

怖い映画。

 

パンズ・ラビリンスは怖い映画でもあります。

 

現実パートでは暴力表現とヴィダル大尉の妄執への恐怖を。

ファンタジーパートでは、得体の知れない世界へ踏み込んでいく恐怖をともないます。

 

ただし、あくまでパニックホラーやスプラッターホラー的な手法は避けていることが、本作が安っぽいホラーに落ちることのない、独特の『格調高さ』とでも言うべき雰囲気をもたらしています。

 

 

現実パートでは、主人公・オフェリアの義父であるヴィダル大尉が恐怖の要素を凝縮したような存在です。

彼は職務使命のために手段を選ばず、偏執的にレジスタンスを壊滅させようとします。

彼のふるう拷問などの暴力は、あまり直接的には描写されません。

スプラッターまがいのこともやりますが、暗くてよく見えなかったり、その瞬間はカットされたりするのです。

 

さらに、大尉自身が亡き父親からの呪縛に苦しんでいることが描写されます。父の形見の時計を『そんなものは存在しない』と断定するシーンによって、彼の人柄や育った家庭環境などに思いを馳せないわけには行きません。

これは本当にごく短いセリフですが、それだけで一気にヴィダル大尉というキャラクターの厚みが増しています。

 

かといって、そういうことをやり過ぎると、せっかくの強烈な恐怖対象であったヴィダル大尉というキャラクターは「単にかわいそうな環境の被害者」になってしまいかねないところですが、本作はその辺りのバランス感覚が光っており、大尉は最後まで、あくまでも恐怖の対象としての悪役であり続けます。

 

 

ファンタジーパートでの恐怖の一つは、迷宮の主たるパンです。

パンはオフェリアのことを「地底の王国の王女様」だと言い、かの女に対してかしずく態度をとります。

しかし彼の言っている地底の王国の物語が本当なのかどうか、うまいことを言って騙そうとしているのか、観客には判りません。

オフェリアが彼の言うことを簡単に信じ込むのを見て、危なっかしく思うのみです。

 

パンは最初こそ優しく礼儀正しいのですが、オフェリアが1度だけ禁を破った際には激高し、その場でかの女のことを見捨てます。

かの女にとっては現実パートから脱却するための唯一の希望であった、地底の王国へ行くという可能性が断たれたわけですから、オフェリアは絶望するのです。

 

オフェリアがいかにパンに対して希望を抱いていたかが、パンの外見にも現れています。オフェリアが初めてパンと遭遇した場面と、試練の途中で再会した場面とでは、明らかにパンの外見が異なります。

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最初は白濁して死体のようだった目が、大きく感情をたたえた目に変化。

肌や髪も生気をおび、いびつだった角も整ったカーブを描くようになっています。

 

この変化は、たぶんオフェリアの心理の変化に起因するものなのでしょう。

得体の知れないパンも、かの女にとっては最後に残った一縷の望みなのです。

外見は親しみやすくなったパンが、しかし『試練は失敗した、もう地底の王国に戻ることはできない』と最後通告を突きつけてくるギャップ。

また、「契約に深く踏み込めば踏み込むほど魅力的に見えてくる」というのが、悪魔の誘惑も思わせますよね。

観客は、余計にパンのことを『良いやつなのか、悪いやつなのか』わからずに不気味さを感じることになります。

 

 

パンの他には、強烈な印象を残すペイルマンも恐怖の対象です。

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しかし、ペイルマンは人喰いモンスターであることが明示されていながら、結果的にオフェリアに危害を加えておらず、ヨタヨタと追いかけ回しただけです。

その際もパニックホラー的な演出(たとえば、ペイルマンが逃げるオフェリアを一瞬捕まえかけるとか、閉じそうな扉をこじ開けようとしてくるとか)は避けられています。

 

 

以上のように、本作は恐ろしさを感じさせながらも、露骨な描写・エグさはあまり感じられず、それによってチープになることを回避しています。

むしろ本作の怖さというのは、奥底のしれない不気味さ、生理的に受け入れがたいような居心地の悪さに近いのではないでしょうか。

本作がすごいのは、しかしそうした不気味さを単なる悪趣味ではなく、美しく格調高い映像にしているところでしょう。

 

 

 

 

残酷な映画。

 

パンズ・ラビリンスは残酷な映画でもあります。

 

そもそも、オフェリアが物語開始時点でおかれている状況からして、かなりの閉塞的状況です。

そのうえ、かの女はまだ子供であまりにも非力。

物語が進むにつれて悲劇に悲劇が重なり、どうしようもないまま破滅に向かって突き進むしかありません。

ラストに至っては、見方によっては本当に救いのない終わり方です。

 

オフェリアの存在は、『抗えない運命に翻弄された無力な少女』…と言ってしまえばそれで片付けられるものかもしれません。

これはひどく残酷なことです。

 

しかしながら、本作には『救いの要素』としてのファンタジーパートが存在します。

これこそが、オフェリアをただの『可哀相な子ども』で片付けられない大きな要素でもあり、本作の大きな魅力です。

 

 

 

 

幸せな映画。

 

オフェリアは『可哀相な子ども』だったのでしょうか。

YESとも言えるし、NOとも言えます。

 

ひとつ確かに言えるのは、『かの女が可哀相な子どもだったのかどうか』を決めるのは、観客である我々でも、劇中の登場人物の誰でもなく、『かの女自身』しかないということです。

かの女はラストシーンで、地底の王国に姫君として迎えられて幸せに暮らすビジョンを見ていましたので、きっと自分を哀れんではいないと、私は思います。

 

そういう視点に立ってみると、「オフェリアの見ていたファンタジーパートの世界は『現実』なのか、かの女の『空想』なのか」という議論は、実はあまり意味がないことに気付かされます。

 

オフェリアのことを可哀相だと判断する人にとっては、ファンタジーパートは『追い詰められた不幸な子どもが、現実逃避で空想の世界に逃げ込み、そうしているうちに現実と空想の区別がつかなくなってしまった』という判断になることでしょう。

確かにそうかもしれません。

 

しかしですね。

仮にファンタジーパートが総てオフェリアの空想の産物だったとして、それがどうしたと言うのでしょうか?

オフェリアにとってそんなことは、これっぽっちも意味のないことです。

 

 

この感覚は、空想がちな少年少女であった方には簡単に理解していただけるでしょう。

夜ごとベッドに入り、ひとり児童文学や絵本を読みふけって自己投影したり、虚空を見つめては妖精や宇宙人を思い浮かべたような、そういう子どもです。

本作は、きっと本人もそういう子どもだったであろうデル・トロ監督が、自分の同族に向けて作った映画ではなかったでしょうか。

 

 

だからこそ本作は、こんなにも残酷で恐ろしいにも関わらず、美しく魅惑的な映画として結実しているのではないでしょうか。

 

 

 

大人になるにつれ、人間は現実と向き合わざるを得なくなる訳ですが、同時に世界の広さや、『世の中には色々な人間がいる』ことを学んでいきます。

人の数だけ幸せがあり、その幸せには本人以外、他の誰も口出しできないというのが厳然たる事実です。

能力の優劣、収入や資産の多さ、容姿の美醜、そういった尺度は存在しますが、他人にその尺度に収まることを強制することは、誰にもできません

 

とくに、自分の空想に最高の価値を見出している人間にとっては、空想こそが最強の幸せであり、幸せな人生への一番の近道です。

 

 

私の敬愛する映画感想ブログ様で、本作のラストをナルニア国ものがたり』の最終巻の展開になぞらえているのを拝見したことがあります、私の意見としては、両者の類似は表面的なものではないかと思います。

というのも、私もナルニア『さいごのたたかい』のラストの展開には長年モヤモヤした人間だから言うのですが、ナルニアの場合は『登場人物に対する作者の価値観の押しつけ』がありました。

おもにC.S.ルイスの信仰から来るキリスト教的な価値観の強制であって、まるで『これこそが幸せなんだから、いいだろ!はい、ハッピーエンド!』とでも言わんばかりです。

 

パンズ・ラビリンス』の場合は、そうした価値観の押し付けとは、ある意味対極にあたります。

本作では幸せというものが、限りなく個人的な「他に侵されざるもの」だという視点に立っています。

だから、観客それぞれの価値観によって『鬱エンド』とも『ハッピーエンド』とも解釈できるのですね。

オフェリアが幸せかどうかを決められるのは、かの女自身だけですから。

 

この、ともすれば孤独や卑屈につながりがちな感覚を、非常に大事に、繊細に扱っているのが本作だと思います。

そういう訳で、私には『パンズ・ラビリンス』は、多幸感あふれる宝物のような映画に見えるのです。

 

美しく格調高く、肌ざわりを感じさせる映像を浴びながら、私達も空想の世界に純粋にふけることができる。

そんな作品として、大事にしたい名作だと思うのです。