『来る』赤ちゃんを授かって初めて観た映画は、ネグレクト・ホラー映画でした
念願の赤ちゃんを授かったと思った矢先、それと知らずに見たホラー映画が、じつは親子の悲劇を描いた作品だった件。
いかにして、喜びに冷や水をかけられる羽目になったか
こちらのブログでは初めて触れますが、先日、妻のお腹に新しい命を授かりました。
私にしてみれば、妻との子供は念願であり、かつてない喜びの渦中にいます。
そのサマは、別ブログに認めています。
さて今回は、その喜びも冷めやらぬうちに観た映画が、よりにもよって『来る(2018)』だったという話です。
前々から、原作小説『ぼぎわんが、来る』の評判の高さはつとに聞いていましたし、その昔『下妻物語』『嫌われ松子の一生』で楽しませてもらった中島哲也監督の最近作だということもあって、観たいとは思っていたんです。
妻(ホームムービーちゃん)がホラー映画好きだということもあり、『じゃあ、今日はJホラーを観ようか』と、気楽に再生したんですが…
その内容は、これから親になろうとする我々にとって、強力な戒めになりうるような作品だったのです。
少なくとも、浮足立っていた私を現実に引き戻し、気を引き締めさせるには十分な効果がありました。
※以下、ネタバレがあります。
親になる予定の人にとって、もっとも恐ろしい映画
本作はいわゆる『リング』のような、妖怪や怨霊のたぐいが襲いかかってくるホラー映画ではあるものの、必ずしもそれがテーマにはなっていません。
むしろ、「親と子供」の関係を中心にした『羅生門』的なサスペンスホラーがベースになっており、それがはらんでいる醜さや、軽薄な親に対する代償の具現化として、目に見えない怪物「ぼぎわん」が登場する、といったほうがしっくりきます。*1
「ぼぎわん」自体は恐ろしい力を持っているものの具体的な姿は見せず、何を考えているのかも分かりません。あくまで超自然的な「よくわからない力の発現」という感じで、貞子や伽耶子のようなキャラクター性は皆無です。*2
本作のメッセージ性としては、『人は見たいものしか見ず、自分の都合の良いように物事を理解する。その犠牲になるのは罪のない子供である』ということではないでしょうか。
とくに中盤までの主人公である夫妻の、「理想的な家庭」を、非常に俗っぽく、下卑たものとして描いているのが印象的です。
父親役の妻夫木聡は「周囲から理想的な父親だと思われたい」という自己愛的な願望が第一で、実際の育児に向き合わない。
母の黒木華はそんな夫に内心で愛想をつかし、彼の死後は我が子を放りだして、独りよがりな「自分の人生」を歩み始める。
とくに妻夫木聡が運営している「育児ブログ」のうすら寒い醜悪さの描写は念入りで、観客は激しい嫌悪感を感じることになります。当人の自覚と、第三者視点から見たときの酷さのギャップがすさまじい。
ちょっと待った。当の私は、こうしてブログを書く人間で、数か月後には父親になる予定なのです。
明日は我が身か。
ある意味、こんなに怖い映画があるでしょうか。
私は妻夫木聡の姿を、反面教師として胸に刻みこんだのでした。
『オムライスの歌』を許せるか?子供もまた、人である
本作『来る』では、最終的に子供(幼児)がすべての物語の中心におさまってくるのですが、親子の関係性がメインテーマの映画にしては、子供自身の人格描写がほぼありません。「俗物の親の犠牲になった、無垢な存在」という役割以上の人格を与えられていないのです。
そのあたりに、この作品に対するちょっとした煮え切らなさを感じます。いろいろな要素を「子供」に収束するにしては、子供自身は無条件に罪のない存在であって、そこに子供自身の感情や思考を語らせないのです。
ちょっとそこに厚みが足りない気はしてしまいます。
だいたい親子というのは、分かりやすいようで分かりにくい人間関係だと思います。
当たり前ですが、子供もまた一人の人間であって、生まれながらに親とはまったく独立した存在のはずです。
ただ、厄介なことに、かれらは幼いうちは社会的・経済的には自立するのが難しいので、庇護者を必要とします。
庇護者の役割を担うケースが多いのは、やはり親です。ですから、親はかれらが大人になるまで社会的に守ったり、経済的に援助しなくてはなりません。
この構造が「従属関係」「上下関係」と容易に混同されやすく、親子両方にとって勘違いの原因になります。だから親はときに、子供が一個の人間だということを忘れて過干渉になったり、操ろうと思ったりしてしまうのでしょう。
私は仕事柄、子供さんとその保護者さんと接する機会がちょくちょくあるのですが、中には『子供に自分の夢を託している』と公言してはばからない親御さんまでいらっしゃいます。そして、そのことになんら疑問も感じていないようすです。
もちろん他所様のご家庭のことをジャッジする権利は私にはありません。
が、人間の悩みは対人関係の悩みであり、『他人をコントロールできる』という間違った思い込みは、苦しみにしかつながりません。親子そろって、わざわざそういう思い込みを育てなくてもいいのではないでしょうか。
本作からは、ことの元凶となった親や大人たちに対する強い嫌悪や、現代の風潮に対する批判の意思は感じますが、一方で後に残された子供、つまりこれからも歩み続けなければならない者たちに対しては、ちょっと無頓着な気がするんです。
で、本作の評価の明暗を分けるのは『オムライスの歌』を受容できるかどうかに集約すると思うのですが、私は「中島監督映画のノリ」としては理解しつつも、オムライスの歌には否定的です。
なぜなら、上記のような子供の描き方の違和感をもっとも強く感じるシーンだからです。
あんな目にあった子供が、死屍累々の大事件の後、無邪気にオムライスの夢を見ているというのは、ステレオタイプとしての「無邪気な子供」。彼女は親がいなくなり、さらには「ぼぎわん」という遊び相手が去って、何も感じないのでしょうか?
映画評:邦画の苦いところを噛んだ気がする
本作はホラーのように見えて、途中サスペンス寄りにも感じるが、結局どちらでもない、よくわからないところに着地しています。原作未読なので推測でしかありませんが、これはたぶん『キング=キューブリック現象』が起きているのではないでしょうか。
かの名作『シャイニング』で、キューブリック監督が原作を大幅に改変して自らの映画にしてしまい、ホラーの大家である原作者キング氏が激怒したという有名なエピソードの、あれです。
「ぼぎわん」の由来や正体、どれほどの脅威かが分からないあたりも、『シャイニング』の怪異の正体をあえてぼかしたような表現に通じる気がします。
もっとも、『シャイニング』が「呪いのホテル VS 超能力者」みたいな明確な種明かしのある映画だったとしたら、あれほどトラウマチックに語り継がれる映画にはならなかったでしょう。理解できないものほど怖い、というのがありますからね。
ただ、今作の「ぼぎわん」については、「明確に脅威となる、実在する怪物」ということだけは明らかなので、「理解できない」恐怖を狙ったにしては、単に説明不足に見えてしまうという難点があります。
また、作中の映像の切り替わりが激しく、心象風景、記憶と現実が入り混じるような感じになっているので、実際「得体が知れない」というよりは「わけがわからない」に近い感じかもしれません。
だいたい小説やコミックなどの映画化でよく言われるのは、「映画の尺の中でどこまでやれるか」という問題です。長大な原作の要素を映画の上映時間におさめて作品として成立させるには、原作にある説明を端折ったり、要素の切り捨てが発生するのは常なのです。
この点、『来る』の上映時間は130分。単品映画の尺としては、けっこう思い切った長めの映画です。さらに、終盤には一大霊能者バトルの場面まで詰め込まれて、映像作品としてのボリューム感はほかの邦画に比べて非常にゴージャスになっています。
しかし、尺の長さ、映像の豪華さ、キャッチ―さに比べて、映画全体のプロットにはあまりダイナミズムを感じない。そこにあるのは、「困惑」です。
実写邦画のなかでエンターテインメントに徹している気がする中島監督ですが、このあたりの「突き抜けていない」感じが、なんだか今の邦画の苦い部分を噛んでしまったようで、妙に後味の悪さを感じる部分でもあると思うのです。
自称・ホラー映画好きの妻が「あんまりだった」と評すように、ホラー映画としての楽しみは期待できません。
でも、見ごたえのある映画であることに間違いありません。
とくに親になる予定の方や、小さなお子さんがいる方にはお勧めの作品でした。
ただし、お子さんが見ていないところで、ぜひ。