スタートレック:ピカード シーズン1総括 残酷で美しいが、少し「しこり」も残る
新スタートレック、18年ぶりの新作がついに完結!
シーズン1の総括と、私なりの評価をまとめます。
- 『新スタートレック』18年ぶりの再始動
- 総評:シリーズを通じて
- 解説:スタートレックとリアル世界
- 解説:スタートレックの描くユートピアを、どう解釈するか?
- とはいえ、苦言を呈したい気持ち
- まとめ:シーズン2への期待
※本記事はネタバレを含みます。まったく自重しませんので、あしからず。
『新スタートレック』18年ぶりの再始動
新スタートレック(以下TNG)はスタートレック人気の中興の祖であり、シリーズにとってある意味もっとも幸福な時代とも言えた、90年代のスタートレック人気の礎でした。
TNGメンバーでの最終作であった映画『ネメシス S.T.X』*1が公開されたのは、2002年のことでした。
『ネメシス』はピカード艦長のアイデンティティをテーマにしつつ、TNGでも随一の人気キャラクターであったデータ少佐の最期を描いたことから、たしかにシリーズのラストらしい作品だと言えました。
しかし、ファンの心情としてはデータやお馴染みのメンバーとの別れに、一種のやりきれなさが無かったわけではありません。まして、今ほどインターネットやSNSが普及していなかった当時、他のファンと感想を共有することもできずじまいでした。*2
以後、スタートレックのシリーズは継続していったものの、時系列的にはTNGよりも前にあたる22世紀、23世紀の話ばかり。『TNGの、その後』を望んでいたのは私だけではないことでしょう。
そんな待望の続編が2020年、Amazon Primeのオリジナル作品として実現しました。
発表時から、ピカード役のパトリック・スチュワートが製作に携わり、ライカー役ジョナサン・フレイクスも(例によって)メガフォンをとるとのことで、ファンの期待値も高まり、配信開始を待ち焦がれたものです。
そして去る3月27日、シーズン1、全10話の放映が終わりました。
本記事では、『ピカード』がどんな作品だったのか、振り返ってみましょう。
総評:シリーズを通じて
まず、新スタートレックを視聴済みであることは前提とされています。
その上で、意欲的な挑戦もされています。
キーワードのひとつは、『人工生命』です。
データのような人型のアンドロイドは『シンス』と呼ばれます。
スタートレック 的には聞き慣れない言葉ですが、これは「シンセティック」の略でしょう。合成、転じて人工物…とでもいうニュアンスでしょうか。*3
2020年現在、「AIに仕事を奪われる」だの、「シンギュラリティがそこまで来ている」などの話を聞くことが多くなっており、タイムリーな題材です。
私の『ピカード』への総評ですが、全体的には、過去シリーズの遺産であるキャラクターを丁重に扱いつつ、リスペクトを込めて送り出された作品ですし、ストーリーは謎をはらみつつも、最終的にはきれいに完結したと思います。
この新作はファンに歓迎されるべきだし、作られたこと自体にも感謝したい。
ただ、諸手を挙げてすべてを称賛するわけにもいきません。総括のあと、ちょっと苦言も呈したいと思います。
解説:スタートレックとリアル世界
スタートレックという作品が他のドラマやSF作品と大きく異なる点。
それは作品の根底を流れるユートピア的な『楽観主義』にあります。
事実として、我々を取りまく現実は厳しいのです。2020年になっても人類は、貧困、人種や文化の違いによる偏見、多様性を排除する圧力などなどに晒されています。
しかし、スタートレックのユートピア思想はそこに一条の光をもたらします。
「今はまだ様々な問題があるにしても、いずれ人間はそれを乗り越えて理解しあい、より進歩していくことができる。」
そんな強い信念に裏付けされてきたのがスタートレックなのです。
これがスタートレックにとって最大のガイドラインであることは、TOSの時代から変わりません。
そして、『ピカード』について語るには、時代について考慮しなくてはなりません。いつだって、スタートレックはその時代のアメリカを写す鏡でもあったからです。
もともとTNGのドラマシリーズは、1987年から1994年にわたり放送されました。
この時期、現実では何が起こっていたかというと、
などなど。
アメリカにしてみれば、いわば西側の価値観の勝利を経た訳ですから、「これから人類がひとつになっていく成長の道をたどっていくのだろう」…と希望をもてた時期。TNGはそういう時代を象徴する作品だったのでしょう。人類が分かりあえる希望が見えていた時代の、牧歌的な作品だったと言えるかもしれません。
新スタートレックに登場するのは、理想的な指揮官であるピカード艦長と、絶対的信頼関係で結ばれていくクルーたち。
かれらは人種や年齢・性別がバラバラであるだけではなく、異星人、アンドロイド、視覚障害者などさまざまな出自を持っていましたが、互いを信頼しあい、よい友人同士であり続けました。
いっぽう、今、2020年代を生きる我々は、スマホやタブレット、Wi-Fiは当たり前の存在であり、それ以上に人種や価値観の多様性、情報の洪水の中で溺れています。
当たり前となったダイバーシティと、その裏返しとしての混沌だと言えるでしょう。
まして、コロナウイルスなんてものが現れて、国境や人種やモラルの現実が、なおさら強く実感できてしまうご時勢です。
この現実から抜け出すことはできません。
アメリカはトランプ大統領のもと、アメリカという国家自身の利益に立ち返ろうとしています。
…どうも、「人類同士が分かり合う」未来とは逆行しているように見えますね。
『ピカード』で我々の前に姿をあらわす懐かしい面々は、昔のキャラクター性を尊重された上で、20年が経過した姿で登場します。
そして、我々の知らない空白期間のあいだに、全員がつらい出来事を経験してきています。
ピカード、ライカー、トロイ、セブン、そしてブルー(ヒュー)もです。
魅力的な新キャラクター達も登場しますが、かれらも心に傷をかかえています。
- 過去のトラウマから逃れられない、リオス
- 火星の事件のためにキャリアと家庭のどちらも犠牲にしてしまった、ラフィ
- ビジョンを見てしまったために恋人を殺害し苦悩する、アグネス
- 父親同然に慕ったピカードから見放されたと思っていた、エルノア
- 自らを人間と思い込み、アイデンティティ崩壊に苦しむ、ダージとソージ
それどころか、20年の間に惑星連邦そのものも傷を追っています。
安易に人工生命の研究を禁止し、母星の崩壊に苦しむロミュランへの救援を中止する。
あんなに立派で頼もしく思えた宇宙艦隊からも、誇りが失われてしまったかのようです。
かつての理想はどこへやら。
ここをどう解釈するかが、『ピカード』に対する評価の分岐点だと思います。
惑星連邦やキャラクター達を挫折させることは、2020年にスタートレックを送り出すために必要なことだったのかどうか?
TNGの頃の輝いていた連邦を返してくれよ、とね。
ただひとつ救いなのは、今、あらためて90年代のヒーローであるピカード艦長が、堅い信念と覚悟をもって帰ってきたという事実です。彼はいまや骨董品かもしれませんが、役立たずではない。
我々は失意にまみれ、先細りのつまらない余生をおくるピカード老人を見たかったのではなく、かつてエンタープライズの危機を救い、クルーから絶対の信頼を得ていたジャン・リュック・ピカードの活躍が見たかったんですよ。
少なくともその意味では、『ピカード』はファンの期待に違わないことを見せてくれたと思います。
解説:スタートレックの描くユートピアを、どう解釈するか?
『ピカード』の話のスジは3つありました。
最終的には、謎がとけることによってキャラクターたちの「心の傷」は相互にリンクしていたことが判明し、ドラマとしてはきれいな終わりを見せました。
そして謎が解けたいま、分かることがあります。
『人工生命は破壊者である』というロミュラン、ジャット・ヴァッシュの言い分は正しかった、という事実です。
彼らは自分の同胞を危険に晒してまで、有機生命体すべての危機を救おうとしたんです。*4
いっぽう、古代の人工生命の警告もまた、正しかった。
歴史は繰り返す。時空を超えて同胞を助けに行けるように、大いなる力を遺したわけです。それには筋が通っています。だからこそ、ソージは実際に破壊者になりかけました。*5
それぞれに言い分があり、正義がある。
しかし、正義のぶつかり合いは結局、悲劇にしか繋がらない。
なんなら客観的には、皆が皆、悲惨な結末に向かって爆進しているようにすら見えるほどに。
その運命を変えたのは、ソージ自身がピカードの声に耳を傾け、勇気ある選択をしたからです。
『ディスカバリー』と同様、カーツマンのスタートレックについて『人が死にすぎる』というファンの声を耳にします。
その気持ちは、ものすごくよく分かります。
ある種のユートピアが舞台であり、ヒューマンドラマであるスタートレックにとって、
過剰な残虐さ、人命軽視はふさわしくありません。
ここは解釈の分かれるところです。
スタートレックはたしかにユートピアを描いていますが、私が思うには、ロッデンベリーのユートピアというのは、脈絡のない夢物語ではありません。
思い通りにならない現実を前に、信念をもって「よりよい現実」を目指してきた人たちの挑戦の蓄積が歴史を作り、ユートピアを築き上げてきた。その過程を、スタートレックファンは見つめ続けてきたはずです。
『ピカード』が示しているのは、24世紀にあってもまだまだ現実は過酷で、世界を変えようと戦う人びとがいて、人類はまだ発展途上だ、ということです。
たしかに劇中で、不必要な死者は多い。
ブルー、マドックス、イチェブなどのメインキャラは言うに及ばず、モブキャラでも死ぬことはなかったような犠牲者があまりにも多く出たことは事実です。
制作陣としては今の時代だからこそ、現実は甘くないことを見せつける意味で、あえて残酷な演出という選択をしているのでしょう。
その一方で、最終的に連邦とロミュランの大艦隊が集結までしておきながら戦闘をせずに終わる、というのは非常にスタートレックらしい結末だったと思います。
そして、序盤でリオスが口にした『実存的な生は、死を思うことで得られる』という言葉が、データの最期に活かされて、物語は終わりました。
ファンは20年前、『ネメシス』でデータとの別れを強いられたわけですが、そこにはB4という希望も残されており、完全には彼とお別れをできた気はしていませんでした。
だから、今回その機会を作ってくれたことにはストレートに感謝します。
『ネメシス』でデータが歌っていた曲「ブルー•スカイ」が象徴的に使われて、ファン心理としては感動せざるをえません。だって、皆、データが大好きに決まっているじゃありませんか。
とはいえ、苦言を呈したい気持ち
ただ、『ピカード』のすべてを全肯定するわけではありません。
本当は全肯定したいのは山々なのですが…。
ここからはちょっと苦言を呈させてもらいます。
1.子供に見せたくない描写が多すぎる
まず、ディスカバリーもそうでしたが、スタートレックにしてはあまりにもグロテスクで生々しい暴力描写や、人身売買を生業とするアウトローなどの前時代的な文化は、作劇的にどうしても必要だとは思えません。
これがスター・ウォーズでアウターリムが舞台の話なら文句も言いませんが、スタートレックとしては少々、悪趣味がすぎる。『子供に見せたくないスタートレック』を、私は望みません。
2.『ショック療法』作戦は知的ではない
先に述べたように『視聴者に現実の辛さをつきつけるために、惑星連邦や24世紀の社会そのものを頽廃したように見せる』のはたしかに一つの方法です。
が、あまりにも安易だと思います。
なぜなら、スタートレックはTOSの頃から、『理想的に見える未来像を描くことこそが、問題だらけの現実に対する強烈な風刺である』という構造を持っていたからです。現実が辛いなんてことはわかり切った上で、『本当はこうあるべきだろ』と理想をつきつけるのです。このやり方こそが、実はスタートレックの最もラディカルで、知的な部分だったのです。
ああいう未来に繋がると思うからこそ、現代を生きる我々は(自分が23世紀まで生きることができないとしても)今日この日をより良くするために頑張ることができるのです。
『現実の辛さを分からせるために、リアルに悲壮に描写する』手法そのものは否定しません。が、少なくとも『ピカード』においては従来シリーズのアプローチを踏襲するほうが、むしろ挑戦的だったのではないかと思います。
3.人工生命についての哲学的な掘り下げが無い
また、人工生命というテーマに対しての踏み込みも物足りなさを感じます。
TNGではデータの主役回で、「アンドロイドの人権獲得」や、「アンドロイドは種族たりえるのか」などなど、深く考えさせられる名作エピソードがたくさんありました。
データというキャラクターは『有機生命と無機生命の違い』について考えさせてきたといっても過言ではありません。かれは、だから対比として、人間性というものを浮き彫りにすることができるキャラクターでした。
それが今回は、ダージとソージという『完璧な知覚をそなえた人工生命』の存在を最初から肯定するがゆえに、『人工生命も知覚種族である』というのがあまりにも当たり前の前提に立っています。つまり、『有機生命と無機生命の違いは、身体の構成が違うだけ。シンスは当たり前に人格をもっているし、ときにミスを犯す、普通の生物』ということになっています。
それでどうなったか。
端的に言ってしまえば、ストーリーとしては彼らが別に『人工生命』である必要はありません。結果的に「差別を受け、他の種族に従属してきた人々」というだけの切り口しか与えられていないんですよね。
人工生命という題材の面白いところは、人間が造物主となることと、その造られた存在が被造物としてのあり方をどう捉えるか、…というところにあると思います。
ですから、今回は人工生命という題材をメインに据えた意味は、「データが人気キャラクターだから」という以上にはなっていないように思います。
最終的なピカードの延命措置(と、言うのが正しいのか謎ですが)についても、倫理的にはデリケートなことで、もっと慎重に扱うべきことだと思うんですよね。
データについては尊厳死までさせるのに、ピカードの死については切り込まれない。ダージとソージの存在によって最初から『身体性の違い』問題をクリアしてしまったことで、あやふやになっています。
データとのお別れはドラマとしては美しいのですが、TNGのエピソードに比べて内容が示唆に富んでいるとは、あまり思えません。
4.ボーグに目線が行き届いていない
ボーグについても、食い足りなさがあります。
今回、ボーグを象徴する2大キャラクターであるブルーとセブンを登場させたわけです。
しかも、主役は元ロキュータスのピカード。
ですから、シンスとボーグとの哲学的な対比をするための起用だと期待していました。
それは残念ながらまだなく、お預け状態ですね。
たとえば、あれほど苦労をして人間性を取り戻したセブンに、クイーンまがいの役をさせるというのはとても酷で、重大なことのはずです。イチェブも、あんな悲惨に死なせてしまうことは無かったのでは?
単なる脚本上のギミックとして扱われていて、ここにもっと深いドラマを作ることもできただろうに、そこは残念です。
『「元B」は種族になるのか?』『ある意味、最大の弱者である彼らに救いはあるのか?』など興味深いテーマも示されただけに、もっと知りたいことがたくさんあります。単なる時間不足、もしくはシーズン2の題材になるかもしれませんが。
でもこの続きをやるならば、やっぱりブルーは生きていてほしかったですね。
まとめ:シーズン2への期待
全体的に、今どきのスピーディな要素満載のドラマとしては節制が効いていましたし、ゆるやかで優しい雰囲気とエキサイティングな部分が共存していて楽しめましたが、少しテーマ性は薄いかなと。従来シリーズとの比較としては、そう思います。
色々言いましたが、
『ネメシスの続きを作ってくれてありがとう』という気持ちがとても強いし、従来のキャラクターを大切に扱ってくれたことは素晴らしいと思います。(スター・ウォーズのシークエル3部作の後ですから、ひとしおです。)
新キャラも全員魅力的。
個性的なホログラムに囲まれたリオスは面白い男だし、切れ物だけど人情家のラフィ、テンパりながらもユーモアを欠かさないアグネス、すべてが愛らしいエルノア。
彼らの活躍をもっと見たいのが人情でしょう。
シーズン2の製作も決まっているようなので、今回もの足りなかった部分も掘り下げてくれることを期待します。
新しいクルーも、ようやくサマになってきたところですからね。
では皆さん、長寿と繁栄を。
本ブログでは、広く浅い趣味について、様々なジャンルの楽しみ方をガイドしています。
*1:今聞いてもナンセンスな邦題です。
*2:だからこそU.S.S Kyushuさんは偉大なんです。感謝してもしきれません。
*3:MARVELファンとしては、ヴィジョンのことを指す「シンセゾイド」という語を思い出します。あちらも有機生命と無機生命の中間とのことでした。
*4:例のビジョンは無機生命体を相手に想定したものだったので、ロミュランが有機生命体であるにも関わらずビジョンを見ることができたのは、彼らの精神力と強靭さゆえだとも解釈できます。かれらが暗躍し続けなければ、今回の事件はもっと悲惨な結末を招いていたかもしれません。
*5:関係ありませんが、『宇宙に開いたポータルからウネウネ触手の絶対者を呼び出す』って、思いっきりヘルボーイですよねぇ。しかも召喚者の意思であっさり召喚を中止できるし。オグドル・ヤハドが来たかと思いました。